2017/06/21 15:19

仏教の元になった古代インドのバラモン教にヤージュニャヴァルキヤという人がおり、その人の有名な言葉に「梵我一如」というのがある。

世界を成り立たせている原理(梵=ブラフマン)と個人を成り立たせている原理(我=アートマン)は同じであるという意味。

その後、お釈迦様が達した境地が「無我」

アートマン(私)は存在しない。

そして、数々の仏教僧達が悟りの境地に達する為の方法を後世に伝えている。ただひたすらに座り続けたり、公案と呼ばれる答えの無いナゾナゾを考え続けたり、念仏を唱え続けたり、人それぞれ、宗派によってそれぞれやり方は違う。

しかし般若心経に代表されるように、その結論は「無」である。全てのものは無い。自分を苦しめているものは自分自身が作り出しているだけである。思考に捉われてはイケナイ。梵我一如。

勝新は自分が納得する映画を作りたいと勝プロダクションを作った。しかし現実はそんなに甘くない。思うようなものが作れず、妥協しながら作品を作っていく。そして苦悩の中、自分で監督をやり、座頭市をやる。結果、勝は座頭市と同一化する。座頭市の視線からの世界にはもちろん座頭市は映らない。その当時勝はよく座頭市が出てくるシーンを撮り忘れたという。勝市一如。ゴロが悪い。

仕事をやることにおいて、ここまで全てを懸けれるというのは物凄い苦痛を伴うことであろうし、誰でもできることじゃない。だからこそカッコいいのであろう。プリンターとしても革職人としてもまだまだ足りないものだらけだが、作品と自分が同一であると思えるほどの仕事ができればこんなに素晴らしい事はない。

とりあえず食べたらすぐ横になって牛と同一化するところから始めてみよう。

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